2022年12月31日土曜日

みんなを連れて、来年に行きます。Thank you very much!


 野沢さんとのきっかけは南さんがアーリーに連れて入ってくれて付き合いが始まった。

人と出会ったきっかけや瞬間を大抵覚えていない。そしてその後の付き合っていく過程などはさらに想像もつかない。

62歳で人生を全うしたことについては、病気と闘ってる時間が長すぎて僕の年齢にまで到達することはまずないだろうと思っていたし、野沢さん自身も多分ある程度の覚悟はしていただろう。人生を長生きすることに全霊を賭ける人でもないように見えた。ただこればかりはあれだけ一生懸命病と戦った人だからまだまだ生き続けようと思ったのかもしれないし、そこのところについては酒を飲み続け、タバコを離さなかったところを見てもよくわからない。

ライブハウスの経営者としては相当癖の強い、相当タフな、一見すると武闘派のライブハウスプロデューサーとしてずっと記憶に残る人になった。これから先こういう店はそう多くは出てこない。昭和のある時期から石化が始まり少しずつ店に時間が降り積もり始め、この店にしかない空気をまとい、演者と客の連帯感、信頼感が強く醸し出されていった。だからと言って音楽を戦う場だとは微塵も考えていない、本当に平和的に穏やかに、優しくそこに集まった人と共犯幻想を持つことを主義としていた。と書くと野澤さんは「何言ってんですか?僕は単なる好きな音楽の蒐集家だけですから。」とも言わないけどそれに近いことは言っただろう。

1年に2回、旭川でやるようになったのは打ち上げの何かの会話がきっかけで、どうせだったら次のライブのにってを決めましょうかということになり、野澤さんが予定表を持ってきて大体の日にちをリストアップして本決まりの日を決める。これを書いていると打ち上げの案時間が浮かび上がってきてしみじみ悲しい。人は必ずいつか空に昇っていくんだけど、どうせならこんな記憶が残るといいなあ。断片的にしか記憶は起き上がってこないけど、アーリータイムズという店が言葉にのぼるときは野澤尚司とセットになる。野澤さんが最後にセットしたのが12月3日の僕のライブだったというのをタカちゃんと話してた時に、なんか光栄だったなあと思った。僕はその日、もう野澤さんには会えないだろうなと思いながら歌ってた。

野沢さんはとにかくライブが終わった後の弛緩する時間が好きだった。自分の文の酒を持ってきて静かに音楽の話あれやこれや話す。あの時の顔が好きだったよ、穏やかでさ。

やれやれようやく酒が飲めると。がんばったねえ、野澤さん。


今年の文はここで終わりです。

来年は必ずくるというところまで来ました。断定してもいい、後9時間、2023年だ。

超えられなかった人もたくさんいただろうけど、こうやって新年を迎える僕ら。生きていくということはこういうことなんなんだな。

皆さんのおかげで僕は生かされています。くれぐれも気合を見せてください。

ありがとうございました!よいお年を!!!