2024年5月7日火曜日

弟子屈、旭川、そして東京




弟子屈 喫茶 あい 4月20日(土)


弟子屈までは釧路まで飛行機。

27年前にコンサート実行委員を結成して、冬の2月にコンサートを開いてくれた会長の山本さんが奥さんと一緒に出迎えしてくれた。風の強い日で飛行機も飛ぶかというような空模様だった。

釧路から弟子屈までは1時間半かかる。27年前に大雪の中、唯一通行可能だった道をかろうじてたどり着き、コンサートが行われたことなどを話しながら。鶴居村、釧路湿原展望台、まだ緑のない道路を走る。

1枚の写真を見つけた。「佐々木幸男コンサート 弟子屈実行委員会 1997年2月27日

於社会老人センター」委員会のメンバー17人とトールがまだ短髪黒髮で写っている。会長が僕の隣で笑っている。僕は変な髪型と変な白いシャツを着て腕組んでる。

それぞれに27年の時間が過ぎ、もう一度同じメンバーで写ってみたいなあ、と思っても余程のことや奇跡でもない限りは叶わない希望だと思うけど、見てみたかった。この集合写真をみながら思ったこと。普段はあまりそんなこと思わないんだけど、有志が集まってコンサートを開いてくれる機会というのはそうあることはないので。

時間が随分と経って、改めて思い起こし、よし!来てもらおう!と思い立ってくれるなんてことはそうそうない。

喫茶あいの山本さん(会長じゃないもう一人の山本さん)が今回の連絡係となって色々と面倒見ていただいた。こっちの日々の態度を反省させられるような丁寧な方で、40年以上喫茶 あいを営業してるという。中心メンバーが何度もこの店に集まりライブの詳細を詰め、スケジュールを決め、人に声をかけ等の準備をして、折あるごとに電話で中間報告を重ねてくれた。11月から4月まで半年かけてライブの準備に時間をかけてくれる。自分のことなんだけど、電話と時々聞こえてくる呼び掛け声が今も印象に残っている。

いつも思うんだけど、誰かが一人でもいないとその現象や事態は起こり得なく、道は別の方向を目指し、人生も別の向きに変わる。

弥生さん、ひとみさん帰りはわざわざ空港まで送ってもらってありがとう。すごく楽しかった。焼きそば食べきれないかも?とお二方言ってましたが僕は多分大丈夫だと確信していました。

一枚の集合写真をこの数ヶ月机の脇に置いて見ていた。一度きりの出会いで、また会いましょう!とは多分当時言ったと思うけど、27年で再会するとは去年の10月までは思ってもいなかった。

今度は緑に溢れかえっている道路からあの景色みたい。その時は喜んで釧路湿原を展望台からみたい、なあ。


旭川、アーリータイムズ。4月27日(土)

たかちゃんが3時半にアーリーに入るというので、じゃその時間頃に行くと伝える。

玄関のドアを開けて中に入ると本人が準備終わって僕を待っていた。

軽く挨拶終え、ギターケースを開きセッティングされた椅子に座り、歌い出す。何も注文もなく委ねるように唄いたい歌をうたい、自分の調子を確認する。だいたい想定していたところに自分が行ったら「よろしくねえ」と言ってリハーサル終了する。普段だとこの段階で野沢さんがやって来てカウンターの中でゴソゴソ始める。

野澤さんいなくなってもう1年半経つか。ぼんやりタカちゃんが扱うPAブースから舞台の方を見ると普段感じたことのない距離感というか天井に貼ってあるサイン色紙の列やたら遠近感があった。主人のいないライブハウスは変な立体感があるんだ、って思ったのは自分だけか?

アーリーは有志が集まって運営している。ある意味これは野澤さんの遺志を引き受けている、野澤さんのガッツが消えた時に店は終わるのかもしれないし、自分ら含めての意思の集合体なんだろうな。ライブハウスは文化財じゃないから、いくらその店が有名になろうと意気があろうが無くなる時にはなくなる。いつまでもあるわけじゃないからある間は大事にしようと思う。寿命があるから人も物も愛おしく切なくなるのだろうな。

次のアーリータイムズは10月19日(土)。


さて、今週土曜日。東京バック イン タウン。

僕にとって東京は優しい街だ。昔みたいに東京を歩き回ることはないけど、それでも東京だけは変わらない。変わったと思う時は多分、東京が止まった、停滞した、流れが滞ったと感じる時だろう。お願いだから、みんな元気で、集まってください。楽しみにしています。





 

2024年3月25日月曜日

コーヒーカップの絵ばかりだ。

 パソコンの調子悪くて写真があげられないです。

携帯の機種変更したばかりでよくわからん状態です。

3月14日の恒例のライブ、ありがとうございました。

無事にというよりも、素晴らしいライブがやれたと自負しております。毎年のようにこの時期何が何でもと足を運んでくれるみなさん、久しぶりだから顔でも見に行くか?今回のメンバーは面白そうだ、いろんな思いを持って来てくれていることと思いますが、そのたびの後押しはこの年齢になってさらに力にもなるしモチベーションにもなります。始まる前は来年も行けるか?再来年はどうだろう?とか、ちらっと思いをかすめるのです、それでもこれは自分がうやって来た歴史なのかもしれませんが、ここはどこまでいっても通過点にしかならなくて、未だ嘗て途中という言葉しか出て来ません。自分の足で立って、自分の手でギターを弾いて、自分の喉で歌を歌う。自分の責任という言葉ももうありません。一種の慣性なのだろうと思います。振幅は去年より落ちていくはずです、一昨年よりも振れ幅は小さくなっていくかもしれません、が、それでもついている勢いはそう簡単には止まらないです。時々ブランコを漕ぐようにその慣性に力を加えようともします。それは僕の意気地なので人の目にどう映るかはわからないです。でも、それでいいかなあ、とも思います。


ありがとうございました。ただただ感謝あるのみです。

2月だな、睡眠外来というのに興味があって、それとこのところの若干の不眠お手伝って一度行ってみたいと思っていたところ、思いの外不眠の人は世の中に溢れているみたいで、ひと月以上待たされてようやく診療というものをしてもらいました。

まあおおよその本人の日常生活、習慣、既往症などいろいろ聞かれ、採血してもらい、帰りに無呼吸症、睡眠時の酸素濃度を測る結構物々しい器具と、腰につけるカロリー消費、歩数計などがカウントされる小さな機械を預かって来た。無呼吸測定器は二日間チューブを寝る前に鼻に差し込んで朝まで、二日間。もう一個のカウンターはい一日中24時間装着して3週間ちょっと。

結果から言えば血液も無呼吸も何も問題はなく、一般の数値で釈放。日々正しい生活とリラックス、それと毎日の運動、太陽を浴び健やかに暮らせば今の所改善するはずということだった。いくつか思い当たることはあったので素直にその診断結果には従うこの10日ほど。

一つだけあるとすれば鉄分、体内に貯蓄されるべく鉄分が思いの外少なく、鉄を取ろうということで普段行ってる近所の内科の先生に鉄を賄ってくれる薬をもらう。これが思いの外目に見えて効きます。しばらく飲み続けてその後に改めて血液検査をしてもらうことで今の所一件落着。これで解決つけばデータ的にはほぼ全域許容値内になる。

それにしてもこの3ヶ月病院祭りだった。まあ、行ける時に入っておきなさい、っつうことなんだろうな。


4月から5月にかけてライブやコンサートで結構詰まってくる。いいタイミングだった。

4月は21日(日)、弟子屈 喫茶あい、1997年2月 佐々木幸男 弟子屈実行委員会が27年ぶりに感激もののライブを企画してくれました。

4月27日(土)、旭川 アーリータイムズ、野澤さんいなくなってのアーリータイムズです。アーリー存続の縁はまだあり続けます。

5月11日、バック イン タウン、ここも安井さん、小川さんの円が続いています。東京の皆さん7ヶ月が過ぎましたが変わらず元気で暮らしていますか?春ももう通り越していますね。

5月17日(金)札幌、道新ホール コッキーコンサート、去年東京でやったコッキーポップコンサートを地元札幌で行います。出演者は鈴木一平、高木麻早、因幡晃、庄野真代

5月25日(土)稚内、エビナイベントホール、4年前コロナで中止になった稚内のエビナイベントホール、蛯名マスジ、摩守俊のSENOをゲストにやります。

6月1日(土)札幌、道新ホール ありがとう道新ホール、最後の道新ホールになります。デビュー前、デビューしてから、本当に思い出深いホールがまた一つ無くなります。北海道チームでやらせてもらいます。山木康世、みのや雅彦、手風琴、工藤忠幸

6月8日(土)札幌、円山夜想 デビューして何年?48年になります。あと2年でいよいよ区切りのいい年月になります。元気にやって来ました。どうぞよろしくお願いします。

7月7日(日)旭川、コジャック、この数年武田君の店コジャックの開店記念に付き合わされてます。ブーフーウーからの付き合い、これから先もお互い倒れるまでの誼みで生きていこう。長い付き合いになったね。今回も去年と同じロケット姉妹との共演です。

今日も寝入りそうな春の気配です。不眠ともおさらばか?

長いことの無沙汰、相済みません。

タイトルはまだ写真が載せられる頃にそろそろ書かなければと思い、コーヒーカップの写真を載せようと思った時につけたもので、ようやく今日ここにアップできました。

コーヒーカップはどこにもありませんので悪しからず。


2024年1月26日金曜日

本当にお前は偉いなあ。


 動物管理センターのケージの中で62番という背番号つけて、ふんぞり返って僕が指名するのを確信していた姿が一番記憶のなかに残っている。

ほっぺたが可愛くなく、僕みたいにこけていて、目にやたら力が有り余っていた。

17年になんなんとする共同生活は穏やかなもので、気性も静かで猫のくせに人に気を使い、無茶な要求や乱暴な振る舞いもなく、時々何か気に触ると通りすがりに腕に噛み付く。

大概は寝ているか、ソファーによじ登って来て人の胸の上で収まりかえるが日常。

人間も日々暮らすとものが増える、松も長い時間生きていくと同じように自分のものが増える。

そしてしばらく、飼い主はその暮らしの痕跡をあっちこちで目にすることになる。

すぽ太郎の時もそうだったけど、いなくなると部屋の温度が下がるということをはっきりと知覚する

猫は毎日家にいて、その間寝ている時も起きている時も息を吐き息を吸う。

僕らは気がつかない、その生きている息が部屋の温度や空気を変え、上げていることに。外から家に帰ってくると感じたことのない空気が部屋を変えている。

松は物持ちだった、爪とぎ4個、しまむらホイホイ(島村で買った中が空洞になっている布製綿入れ)3個、キャットタワー、外が見られる窓ガラスに貼り付ける半ベッド、トイレ、給水器、水の皿2個、ごはん茶碗2個、毛梳きブラシ3個、ドライフード2袋、チャオチュール等々、まだたくさんある。

今回は最後の最後まで見届けた。心臓が止まる音も手のひらで感じた。

本当に偉かった。猫のくせに。

よく見ろよ!と松に言われた。こうやって死ぬんだお前も、いいか!


1月11日、木曜日。

ぼくが尿路菅結石で退院した二日後に逝ってしまった。